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【ネタバレあり】タタール人の砂漠感想

中学生の時、運動音痴なのにサッカー部に入っていたため、ずっと練習についていくことができなかった。そのため中学校三年間はずっとこれじゃない感が体に付き纏っていたが、結局部活をやめることはできず、今でも失敗したと思っている。その失敗自体は反面教師として納得しているのだが、もし、一生の間運動音痴なのにサッカー部に入ってしまったらどうなるだろうか。「タタール人の砂漠」という本はこの”もしも”を描いた作品だと思う。

確かこの本を見つけたのは半年近く前で、あらすじを読んで惹かれたのは覚えている。しかし内容が色々と複雑なので、何回か読み直してさらに感想もたくさん読んだ上で、ようやく物語の全容が見えた。(筆者の読解力はその程度である)

半年かけてようやく理解できるようになった作品なので、個人的な解説と感想をまとめてみたいと思う。

あらすじ

士官学校を卒業した新米将校ドローゴは、新しい赴任先である辺境の砦に向かう。そこは国境を守る砦とは名ばかりで、目の前の広大な砂漠とその先に住むという誰も見たことがない敵タタール人の襲撃に備えるのが任務という変化のない生活に若きドローゴは幻滅し早急に転属を願い出る。しかし、この砦でいつか来るタタール人の襲撃というものにだんだん魅了されていくドローゴは、それを待ち望み広い砂漠を監視する生活に無意識に馴染んいく。時の流れに取り残され、青春を浪費するドローゴ。何年も過ぎたある日、遂にタタール人が住む領域で不審な動きが見受けられ、ドローゴが待ち望んだ物が少しずつ現実となってくる。

ネタバレをすると、結局のところドローゴは砦で一生を過ごし、引退直前になって敵が攻めてきた結果、砦に残っていた平和ボケした将校ということで戦線から退けられてしまう。そして誰にも見向きもされないまま、一人死地に望む・・・という構成だ。

やはりこの物語は、一回読んだだけでは全容を把握するのはなかなか難しい。少なくとも自分には無理であった。色々感想を読んでみると、この本で考えるべき点は大きく二つあると思う。それは

・結局ドローゴの人生とは一体なんだったのか

・ドローゴはどうすればよかったのか

である。この二つの点についてじっくり考えていくと、この小説をより深く理解できると思う。

ドローゴの人生はなんだったのか

ドローゴの人生を一言で言えば夢を叶えるどころか結婚すらできず蕩尽してしまった人生というべきだろう。客観的に見れば、そういうべきだと思う。ただ実際物語終盤にドローゴは

「私は三十年以上もここでじっとしてきたんだ・・・・・・いろんな機会も見逃してきた。三十年と言えば随分長い、その間ずっと敵を待って過ごしてきたんだ。今になってそんなことを言わせないよ、今ここを立ち去れなどとは。私にはここに残る権利があると思うがね・・・」

と語っている。紆余曲折の結果彼は砦の番人として自分を肯定したかったように思え、それはオルティス少佐のように戦に出なくとも軍人としての仕事を全うすればそれで良いという考え方に他ならないように思える。しょぼい仕事だけど最後までやり遂げたいというところだろうか。

 

実際、現実でもドローゴみたいな人はいっぱいいるわけだし、そもそも誰しも一部分はドローゴのような思いを抱えているはずである。「こんなはずではなかった」と思うところがあったとして、どこかで妥協しなければやってられないことが多いのも事実だ。ドローゴもキャリアの最後でタタール人が攻めてくるというイレギュラーがなければオルティス少佐と同じ最後を迎えていただろう。

しかし彼は最後で死を前にして勇気を振り絞っているところから、自分のそれまでの人生を蕩尽したと考えていたに違いない。最後っ屁をしたところでだからなんだという話なのだが、彼のそれまでと比べれば最後にとった行動は華のあるもので、せめてもの救いになるだろう。だが彼の人生はその時にはもう振り返りようがないのだが。

ドローゴはどうすれば良かったのか

さて、このドローゴの人生を振り返って、各時点でドローゴはどうすれば良かったのかを考えることは、この小説を読み解く上で大切だと思う。以下、自分が重要だと思う時点をいくつか挙げていく。

①砦から出る機会を伺う

一番の選択肢はこれだろう。最初の4ヶ月目の時に砦から戻りさえすれば、少し長めのバカンスだったとでも思って心の傷にならずに済んだはずだ。どのような方法で砦から出れるかは置いておいて、とにもかくにも早いうちであればあるほど抜け出しやすかったというのは事実だろう。

②砦で新しい仕事を作る

あとはやはり、仕事がないなら作ればいいというわけで、そんなに国境線が気になるのなら調査隊を設立するべきであった。しかし弱気なドローゴは上官ないしは周囲に何かと言われて挫折していた可能性が高いと思われる。

③医師と結託して砦から出る

そこで最終手段としては、砦から出る機会を自分から作れば良かった。弱気なドローゴに②のような作戦が無理なのなら、医師と結託して仮病となって無理やりにでも街に戻れば良かった。個人的にはこれが弱気なドローゴでもできる現実的な作戦だったと思う。これが20代のうちにできていれば、彼の人生は大きく変わったに違いない。

感想

ドローゴは始めから間違っていたのではないか

ドローゴは砦に来てからいくつもの失敗を犯し、それが折り重なって結末に近づいていく。砦(・・・現実で言えば居心地は良くないのになんとなくやめられない会社、離婚したいけどできない家庭などだろうか。)という見えない拘束力に流され、最悪の選択を何度も取り続けてしまったのである。これを「甘え」と表現するのはいささか違和感があり、個人的にはやはり彼自身に少し気の弱さがあったと思っている。彼の生い立ちを1p目から引用すると以下の通りである。

何年来待ち焦がれた日、本当の人生の始まる日だった。士官学校での味気ない日々を、のんきに、いかにも楽しげに人々が外の通りを行き交うのを耳にしながらの、夜ごとの辛い勉強を、罰則の悪夢の重く淀んだ凍てつくように寒い営舎に響く冬の起床ラッパを、思い浮かべた。無限に続くかに思える日々を指折り数える苦しみを、思い起こした。

ようやく将校になったのだ、 もう書物に悩まされることも、軍曹の声に縮み上がることもない、そうしたことはみんな過ぎ去ったことなのだった。呪わしく思えたあの日々は、二度と繰り返されることのない過去の歳月となって、もう永久に消え去ったのだ。そう、今では彼は将校なのだ、金も入るし、美しい女達も振り向くことだろう。だが、結局は、人生の一番いい時期、青春の盛りは、おそらくは終わってしまったのだ、と彼は気づいた。こうしてドローゴはじっと鏡を見つめていた、どうしても好きになれない自分の顔に、無理に作った微笑みが浮かんでいるのが見えた。

ここの部分をしっかり結末まで読むと、そもそもドローゴの性格自体が軍人に向いていないということがわかる。

士官学校の学生であっても全く逢瀬がなかったとは思えないし、自分がモテないことを士官学校のせいにしているように見受けられる。それに士官学校という男子校の中で芽生える友情だってあるはずで、普通に周りとうまく共存していれば「辛かったけどみんなで乗り切った士官学校生活だった」となるはずである。

この辺は時代背景も異なるのでなんとも言えないが、彼が士官学校の中で悪い思い出しかないのは単に彼が士官学校についていけず、周囲とも溶け込めない中ギリギリ耐え抜いたというのが実情ではないか。そもそも士官学校を卒業して最初に配属された先が例のバスティアーニ砦だったわけで(しかも彼一人)、彼が士官学校でどういう評価をされていたのかは想像に難くない。

思うに彼は士官学校で周りについていけなくなった時点で、思い切って退学すべきだったのではないだろうか。この作中の世界では太平洋戦争末期の日本のように徴兵が行われているわけでもなく、当時はまだ軍人以外の職業になる自由もあったはずである。実際物語では序盤にヴェスコーヴィという友人が金持ちになったと書かれているし、終盤でも他の職業について人生を謳歌した人々が描かれている。結末を見るに、軍人という職業と自分の適性を顧みずに突き進んでしまったのが良くなかった。女にモテるだけなら他の職業でも十分できただろうし、彼の慎重な性格は法曹などになれば活かすことができたのではないかと思う。

ドローゴは想像力がなかった

そしてもう一つドローゴが失敗した致命的な理由は、時間というものに対して想像力があまりに弱かったことだと思う。作中でもある通り、彼はずっと自分が若く、まだまだ可能性があると思っていた。しかし実際には砦に数年いた時点で出世の芽は閉じてしまい、そもそも砦から出ることが中盤あたりから難しくなっていたのではなかろうか。最終的には老いとともに健康問題すら抱えているが、自分がそのような状態にいずれなる、タイムリミットは確実に迫ってきているという実感がいつまでも持てなかったのが致命的だった。

あとはやはり、弱気過ぎるというのも致命的だったように思う。士官学校で苦しい生活に耐えたのだからそれなりの気概というものはあって欲しかったし、過去の苦労に比べて現実が報われていない不合理に対して理不尽を感じることが少なかったのは彼の想像力の欠如と言えるだろう。

現実でも、過去に嫌な経験をした割にあまり恨みを持てない人というのはいる。人を恨むのに向いていない人間というか、嫌なことをすぐに流してしまう人間とでも言えばいいのだろうか。それがよく働くことも多いので、人生は本当に難しい。

いくつか重要だと思う点

そして以下に、私がこの本の中で重要だと思った点をまとめていきたいと思う。

アングスティーナとの比較

まず、若くしてロマンティックな死を遂げたアングスティーナとの比較である。主人公も軍人を志すような人間なので、何もできずに老いて死ぬよりは戦場で華々しく散りたかったようであるが、そうした「ロマンティックな死」は作中ではついに達成することができなかった。一応最後でそれを匂わせる描写あるが、別にそのまま自殺に失敗して生き延びる気もするし、自殺する前に不審者として投獄されるような展開もある気がする。何はともあれ若いうちに死に切ったアングスティーナと醜く老いて生き延びたドローゴの比較は重要だろう。

どっちがいいかは、作中の進行している時間軸では判断が難しい。実際、アングスティーナが死んだ後にタタール人が攻めてきたら、それこそ無駄死になるのはアングスティーナなのだから。取り返しがつかない「ロマンティックな死」を選ばなかったドローゴを、責めることは難しいだろう。

友人の妹との別れ

ドローゴが砦から一時的に故郷の村に戻った時に、かつて仲良くしていた友人の妹と仲良く談笑することができなくなっているシーンが登場する。現実に置き換えると同級生で気になっていた女の子と同窓会で会ったら全く会話が弾まなかったようなものだろうか。かつてはなんの話をしてもあんなに気があったのに、時が経つとこうも変わるものかという経験は、誰しも味わうものだろう。

問題はここで、ドローゴ自体は良い方向に向かっていればそこまでマイナスにはならなかったと考えられることだ。別に人間誰しもいつまでも気が合うわけではないのだから、ドローゴがマリア(友人の妹)と再会した時点で既に砦から抜け出してそれなりの仕事をし、所帯を持っていれば救いようはかなりあった。お互いに変わってしまったのだという認識で済んだはずだ。しかしやはりこのシーンはドローゴが”落ちぶれた”というべきだ。自分が素敵な女性とまともに会話できないほどに落ちぶれたドローゴは、大きな失敗をしていると考えるべきだろう。

現実だと男子校を出ていつまでも女性と接点を持たないで社会人生活を送っている間に、ついに女性とまともに付き合えなくなってしまったような男だろうか。そういう男は心のどこかでいつか自分は素敵な女性と巡り会えると考えていることが多いが、そんな願望が現実になることはありえるのだろうか。

母親との別れ

友人の妹と会う前のページに、母親が住む実家に帰るシーンがある。砦に出立する前は、ドローゴの足音を聞けば目を覚ました母親が、一向に目を覚まさない描写は、仕方がないこととはいえあまりに切ない。

石川啄木然り、親の変化というのは子供にとって大きな痛みを与えてくる。しかもこの変化は、ただの老いではなく愛情の喪失である。かつては足音を聞き分けるほど息子を愛していた母が、四年の間にどことなく距離を隔ててしまったのである。無論母は息子を愛しているだろうが、かつてのようには愛せなくなった。この言葉に書き表せない変化をブッツアーティは非常に巧みに描いていると思う。

現実でも長らく親に合わなければ、頭では以前と同じように愛しているとわかっていても、何かしらの距離が生まれるものだろう。実家から出て働き出し、お互いに独立すればするほど合わなくなるものは多いはずだ。

砂の女との比較

この小説と似たような話として、安部公房の「砂の女」と比較してみる。どちらも不本意な環境に主人公が隔離される展開は変わらないが、砂の女は主人公が誘拐されているので、理不尽さでいえば砂の女の方に軍配が上がるだろう。しかし結末は、理不尽な穴の底で溜水装置の開発といびつな村での生活に主人公が人生を見出した「砂の女」の方が、最後まで砦で時間を無駄にすることしかできなかった「タタール人の砂漠」よりも主人公の心理的には良い形で終わっていると考えられる。

たとえ今いる環境が自分に適していなくても、時間とともに慣れていく部分はある。それが住めば都となるか、ミイラ取りがミイラになるかの違いは、まさに「タタール人の砂漠」と「砂の女」の違いだと思う。少なくともタタール人の砂漠で砦に残ることが救いになる描写はほとんどない。

ドローゴにならないために

この本を読み終えた読者が真っ先に考えるべきことは、自分がいかにしてドローゴにならないようにすべきか、ということに集約されると思う。砕いていえばどうすれば人生を無駄にせずすむかという話だ。もうすでに半ばドローゴになっている人も多いだろうし、自分もいずれはドローゴになりかねない。ドローゴにならないためには何が重要なのだろうか。自分にとっての砦はなんなのだろうか。

この本を読んでいくと、ドローゴは最終盤で「無謀な賭け」という表現を口にするようになる。それはすなわち、「砦に残って来るかもしれないタタール人を待ち続ける」という賭けなのだが、ドローゴにならないためには「現実でもこのような賭けをするべきではない」ということなのだろう。

現実でそのような賭けとはなんだろうか。

結婚はして子供も設けたが、このパートナーとはどうしても気が合わない。会社で出世の限界が見えてきたが、いまいち転職する勇気が持てない。そのような状況にいる人々は、自然とドローゴのように「いつかはパートナーが変わってくれる」「会社にいてもなんとかなる」という「無謀な賭け」に出るのではないだろうか。

 

そして賭けに敗れた代償は、ドローゴのように・・・

最後に

人生はやり直せない、だからこそ機会を無駄にしてはならないというメッセージを、ドローゴという強烈な反面教師を描くことで伝えてくる作品だと思う。既に読了して本に殴られたような気分だが、私より上の年齢にとっては、この本を読んだ後死にたくなるような絶望感を味わう作品だと思う。

これじゃないという感覚に流されながら日々を過ごしていると、あっという間に時間が過ぎ去っていってしまうし、そんな失敗は誰しも起こしかねない。

定期的に何度も読み直して、自戒しなければいけない本だと思った。