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自責思考が辛くて鬱々しくなるのは、自分の負の感情を認められていないから

けんすう氏の自責思考とは何か?を新卒向けに解説してみます。という記事を先日読んだ。

 

kensuu.com

 

内容を要約すると「人生がうまくいかないのは自分の責任にしないと、成長しないのでうまくいかない」という考え方をうまく使えないばかりに、一部の若い人は抱えきれなくなってパンクしている。本当の自責思考はコントロールできないけど重要なものを自分でコントロールできるようになろうという記事。しかしこの記事、いかんせんちょっとわかりづらかったので、自分なりにわかりやすく解釈してみたいと思う。

 まず、記事の中身でよくわからない部分を抜粋してみる。

 

たとえば、会社が100億の負債を抱えて倒産してしまった・・・というときに、「会社を倒産をさせないようにする」ことは、一社員にとってはコントロールできない度が高い状況です。

それを「会社が悪い、会社がちゃんとしていれば」というのは正しいんですけど、事態は好転しないんですね。

(中略)

なので、右下の「重要だけどコントロールできない」が起きた場合は、なんとか「コントロールできる」状態にシフトしないといけないです。

 

こうして読むとけんすう氏は自責思考とは何か?ということについて詳しく解説しているのだが、これは自責思考で苦しんでいる人のニーズに合ってないと思う。字面だけなら確かにそうで、自分の会社が倒産しそうなら転職するしか道はない。ただ現実的には、会社がやばくなったら転職して逃げる人は大勢いるし、彼らが自責思考をできているかと言われたら”できている”となるだろう。

 

問題はそこではなく、自分を責めるあまり心の中で自分の負の感情の立つ瀬がなくなっていってしまうことにあるのではなかろうか

 

実際人間というのはいくら歳を重ねても現実に苦しめられるものだし、その現実のなかで頼りになるのは自分しかいないだろうから、自責思考を続けざるをえない。しかしけんすう氏の自責思考を実行したところで、記事のように自分の勤めている会社が100億の負債を抱えていたのだとしたら

 

「どうして自分の勤めている会社の財務諸表をしっかり調べていなかったのだろう」

「こんな会社を選んでしまった自分は愚かだ」

 

などと否定的な思考や感情は拭えない。自責思考をするならばこれらの思考や感情をどう処理するかというのが浮き彫りになってくる。そうやって惨めな感情に浸るあまりだんだんおかしな方向に行く人はたくさんいる。

 

だから問題の根幹は多くの若者が「正しい自責思考ができてない」のではなく、「自責思考が過ぎるあまり現実の理不尽に対するネガティブな感情を抑え過ぎている」ことではないだろうか。要は真面目すぎなのだ。

 

自責思考とは別に、自分の立つ瀬を用意した方が、気持ちの上では楽

ここからはいくつかの本から自分の心の中でどういう風に割り切っていけばいいのか、私なりの自責思考・改を作っていきたいと思う。ちなみにこれは他責思考も若干混じっていて、イメージとしては他責思考+自責思考みたいなものである。両者は共存できるので、毛嫌いせずに読んでほしい。

 

まず、多くの真面目な人は身の回りのうまくいかないことについて自責思考で考える。

 

あなたが背の小さい男だとして、女性からはあまりモテないし社会的にも所々で理不尽な扱いを受けているとする。しかし真面目なあなたは、自責思考に従って自分がモテなかったり扱いが悪い原因は背が低いこと以外の要素も必ずあると考え、自分の魅力を最大限引き出そうとする。

 

実際背が小さい人というのは何かと卑屈だし、皆さん何かしらの努力をしていることが多い。しかしそれで”心苦しさ”という問題が解決されることはない。この例だと

 

「背が小さいハンディキャップを乗り越えられない自分は情けない」

 

と言って自分を卑下する思考がどうしても生まれてくるし、その思考を繰り返しているとどんどん暗くなっていってしまう。こういう思考に陥ってる人は心の中のダークネスな部分を無理やり明るく照らしている

 

すなわち、背が小さいことで受けてきた理不尽に対する恨みつらみは別に持っていてもいいのである。

 

この話の続きが、幸福論 ―精神科医の見た心のバランス (講談社現代新書) | 春日 武彦の中にある

 

30代になって背が小さいことを理由に引きこもっていた男は、母親に連れられて精神科に連れて来られた。彼は自分がいかに背が小さいことで損をしてきたかを解説した。私がそれに対して労いの言葉を掛けると、男は

 

「そうなんですよ!やっとわかってくれる人が現れた」

 

と言って嬉しそうな顔をした。この男は今まで散々背の小さいことはうまくいかないことと関係がないと言われてきたが、本当のところ男は現実的な解決策よりも背が小さいことへの理不尽に対する不満の立つ瀬が欲しかったのだろう。

 

またこれらを総括してくれる話が、樹木希林一切なりゆき 樹木希林のことば (文春新書)に掲載されている。この一節を読んで、なんとなくでも自分の不満の扱い方をイメージしてほしい

 

私の中にあるドローっとした部分

 

私の中にあるドローっとした部分が、年とともになくなっていくかと思っていたんだけれど、結局は、そうじゃなかった。でも最近は”それがあってもいいんだ”と思えるようになって。少し、ラクになりました。

自責思考はツールに過ぎない。本音まで偽らなくていい

 このように自責思考のあまり自分の中にある負の感情を溜めすぎていると、どんどん自分を苦しめることになるので、ある程度自分の苦労を認めてガス抜きしないと身動きが取れなくなってしまう。

 

これが他責思考かと言われればそうだと思うのだが、自責思考というのはあくまでツール、建前にすぎないものだろう。それを自分の本音と勘違いして自分の思考を徹底的に自分のせいにしようとすると、旧帝国陸軍さながらのしばき上げ体質になってしまうし、それでうまくいく姿は想像しにくい。

 

私は上の方で他責思考と自責思考は共存できると書いた。もっと解像度を上げて説明すれば、自責思考は建前として使って、本音の方は他責の方でも問題ないし、そこで無理やり嘘をつくとあまりろくな目に合わないよ、ということである。

 

上の例で言えば背が小さくて理不尽な思いをしているのなら、現実の対応として背の小ささ以外のパラメータを上昇させる必要はあるし、そういう思考を形成する必要もある。だが、本音の方では自分の背が小さいことで受けてきた理不尽に対する不満は認めないと、精神を壊しかねないということだ。

 

 

この使い分けができるかできないかで、鬱病や自殺のリスクはかなり減ると思う。自分の心の本音は、表には出さないでも存在を認めてあげるだけで十分楽になれるよ!