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「俺の人生なんだったんだ?」と思わないために〜タタール人の砂漠より〜

ずっと私は何かが怖かった。しかしそれを自分の頭の中でイメージすることができなかった。それを具現化してくれたのがタタール人の砂漠という本である。

 

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辺境の砦でいつ来襲するともわからない敵を待ちながら、緊張と不安の中で青春を浪費する将校ジョヴァンニ・ドローゴ――。神秘的、幻想的な作風で、カフカの再来と称され、二十世紀の現代イタリア文学に独自の位置を占める作家ディーノ・ブッツァーティ(1906―72)の代表作にして、二十世紀幻想文学の世界的古典。1940年刊。 

 

長くて少々読み飛ばしてしまった部分はあるのだけど、この本は私がずっと怖がっていたことを文字に起こしてくれた。

 

それは一言で言えば”俺の人生なんだったんだ?”と人生の最後で思ってしまうことである。この本の主人公ドローゴは、

 

・若くから辺境の砦に配属され、

・抜け出せるのに惰性に負けてずっと辺境の砦で何にもならない仕事をし

・そのまま歳老いて時間だけが過ぎ去っていき

・引退直前にタタール人が攻めて来たら老化を理由にお払い箱にされ

・虚しすぎた自分の人生を死の間際に呪いつつ、最後は男らしく死に向き合う

 

という結末を迎える。読み終えた時、「これだ、これが私の求めていたものだ」と思った。

 

 

ずっと何が怖いのかわからなかった

ここ2年くらい自分の中でずっと何かが引っかかっていた。きっかけはバイク事故で臨死体験をしてからだった。

 

臨死体験から2年ほどたった今、私の死生観をまとめてみた 

 

それから死ぬのが怖いのかなあとか、色々モヤモヤしていたことが多かったが、多分日々を無駄に過ごすのが怖いのだろうという結果に陥った。

 

しかし日々を無駄に過ごしていたからって何が怖いんだろう、日々を無駄に過ごすとはどういうことなのだろう。日日是好日というし、どうすればいいんだろうと考えるようになっていた。

 

精神を不安にさせる「人生を無駄にしてるかもしれない感覚」との戦い 

 

人生を無駄にしてると言いつつも、何が無駄なのかわからない。ひたすら葛藤のみが頭の中をさまよっていた。しかしこのタタール人の砂漠を読んで、自分は何が怖いのかようやくわかった。結局、死ぬ間際になって

 

「俺の人生なんだったんだ?」

 

と思ってしまうのが怖いのだ。人間はそもそも地球の熱循環の一部として生まれた存在であり、科学的に見れば人の一生に意味などない。しかし人間の心は、脳はそんなことを考え付かないらしく、何かと意味を求めるのだろう。

 

 

この意味づけというのは厄介で、自分が石を積んでいると思えば石を積んでいるとなるし、ピラミッドを作っていたとなるとピラミッドを作っていたとなる。もしピラミッドが生きているうちに完成しなくても、偉大な王の墓作りに貢献したという誇りを胸に死んでいくことはできるだろう。

 

同じようにして、自分の人生にどのような意味を見出すかは人それぞれである。村田沙耶香の「コンビニ人間」のような人生もある。

 

有限な人生の中で、自分に何ができるか

虐殺器官伊藤計劃は肺がんのため2009年で死去した。彼の遺作となったハーモニーは、SF小説界で知らない人はいないと言われるレベルの作品となっている。

 

彼はガンが転移していることを知った際に、最後にやりたいこととして創作活動を挙げた。それが彼にとって、人生でもっとも重要なことなのだろう。それがあるから彼は、ドローゴにならなかったのだろうと思う。

 

しかし自分には、伊藤計劃氏にとっての創作活動にあたるものがなんなのかよくわからない。せいぜい行きたいところ(それこそピラミッドとか)に旅行に行くとか、好きな女性と結婚して子供を産むくらいだろうか。あとは、高校時代を最後に遠ざかっていたスポーツを再開するとかだろうか。

 

何が無駄なのかわからないでいたら、今度は何が大切なのかわからなくなってしまった。でも、この転換はとても大切なことのように思う。