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想像力が足りないから、あなたはランニングが続かない

ランニングがどうして続かないのか?という悩みに対して、簡単な回答をするのなら「想像力が足りないから」というのが正解だと思う。

 

精神の力というのは強いもので、ランニングを習慣的に続けるという負荷に対して、精神的筋力(ロジック)で対抗するのはそこまで難しいことではない。

 

ではその想像力とは何か、ロジックとは何か、というと、「走ることで人生全体をどうしたいか明確に想像できているか」だと思う。

 石原慎太郎著「老いてこそ人生」の中で、「男は30代になると突然走り出す」という一節がある。

 

そういえば確かに、彼が走り出したのも30過ぎてからのことだった。彼がそういうのを聞いて私にも実感があります。私も確か30歳になってからまた急に走り出したものだった。28の歳に思いついて今も日比谷にある日生劇場を作ったのですが、それが完成した年、つまり私自身が20代を終えて30代に入った時、にわかに至って暇な折々懸命に走り出したものです。

 

この後、女やアスリートはさらに肉体の変化を感じやすいと書いており、やっぱり人間は肉体の変化が想像しやすくなってくると、それをエネルギーにして走り出すのかなと思う。

 

さて私も、一応日々5キロ程度走っているが、想像力を燃料にして走っているのは事実だ。醜く老いたくないというネガティブな想像もすれば、健康に老いたいというポジティブな想像をすることもある。ネガティブが強すぎると頭が痛くなって時々走るのをやめてしまうので、ほどほどにしている。

 

ネガティブな想像は体を強く動かすので定期的に行うが、逆にポジティブな想像も積極的に働かせている。まず、走ることで自分が痩せる。具体的には、頬骨が出て顔に彫りがでる。彫りが出ると自分の顔を見たときに満足度が高まる。そういう細かいところまで想像できて、ようやく走る意義というものが見えてくると思う。

 

自分はまだ20代の前半だが、25を越えればもう体は一気に変わると思っているし、そこから30までどんどん時が過ぎ去っていくものだとも思っている。その想像をすると大抵気分が悪くなるのだけど、個人的には自然に、淡々と仕事をこなしていくようにすればいいのかなと思う。あと数年で25歳になるから、それまでに体を作っておこうということを意識してさえいればいい。走ることを通じて理想の25歳や30歳を目指していて、その想像が細かければ細かいほど現実になると強く思っている。とにかく文字ではなく身体で理解するのが大事だ。

 

また、これとは別に走ることで何か宗教行為を行なっているかのような考え方をするときもある。キリスト教徒が週末は礼拝にいくことで、宗教的恩恵を受ける習慣を持っている。ランニングについてもアニミズム信仰のように、走ることで自分が自然と一体になるような錯覚を覚えることはある。

 

走るというのはそもそも現代人に残された習慣の中でももっとも原始本能に近い行為である。現代では狩をすることも、畑を耕すこともなくなった。現代人が原始人とやってることで同じことといえば、寝る食うセックス、そして走るくらいだ。

 

だから走ることで、少し原始的な人間らしさを取り戻せると考えているのかもしれない。

 

こうした考え方はちょっと道理からは外れていると思うかもしれない。だが、私はこういう無害な宗教的思考に抵抗は少ない。例えば、死後は輪廻転生するという考えなんかも、だから現世で善行を積もうという方向に進むのなら別に悪いことではないと思う。

 

何れにせよ、今自分が走っている一歩一歩が、どういう一歩なのかをどんな形でもいいから想像することが大事だ。長期的に自分の体を作る一歩と考えるのか、ただ気怠く走っているのか。はたまた神に近づくために走っているのか、考え方は人それぞれだ。