今日もまた一日

ビジネス、雑記等のブログ

「あの時ああしていれば・・・」との戦い

人間誰しも、過去への悔恨はあると思う。しかしそれが隣人の死の直後という訳でもないのに、いつもだらだらと悔恨を続けている人種がいる。私だ。

 

私は結構、過去を終わったことにできない。終わったことにできないから、あの時ああしていれば・・・みたいなことを考えて頭がぐるぐるしてしまう癖がある。

 

この悪癖に気づいて直そうとしたのだが、如何せん今まであまりにもその癖が強すぎた。生きてれば思うようにいかない事ばかりで、あの時ああしていたらのifは際限がない。絶世の美女でもない限り痛みのない道のりなどないのだから、ある程度の傷は覚悟して人生を歩まなければならない。

 

 

 

要するに現実を受け入れられないのだ。現実を受け入れるだけの強さがない。「こんなはずじゃなかった。」という気持ちを受け入れる事ができない。

 

「こんなはずじゃなかった」と思う時、人は二つの道を選ぶ事ができる。すなわち、それまでの自分が選んでいた道を進み続けるか、歩みを変えるかだ。

 

ブッツアーティの小説「タタール人の砂漠」で、主人公は軍人として戦地で武功を上げることを夢見て地方の砦に配属される。しかしそこで待っていたのは、砂漠の向こうにいるかどうかもわからないタタール人という的勢力を何十年も待つ苦行に近い任務だった。主人公は砦から脱出したり、砂漠の向こうへタタール人を探しに行く事業を立ち上げるなど幾度も進路を変更する機会がありながら、何もない砦での怠惰な道を突き進んでしまう。最終的に人生の終点までたどり着いた時、彼は何も積み上げて来なかった事、いや虚無の人生を積み上げてしまったことに絶望するのだが、彼こそまさしく「こんなはずじゃなかった」のに進み続けてしまった人だろう。

 

私は自分の人生をドローゴの人生と重ね合わせてしまう。今、結構かなり彼と同じ道を辿りつつあり、早く抜け出したいと思っている。自分がドローゴの人生に鎖を繋がれている理由は、彼と同じ怠惰ももちろんあるが、おそらく上記の過去への異常な執着にもあると思う。コンプレックスが強すぎて、いつまでも過去の自分から脱却できないから道を変えられないのだろう。

 

私が抱えるコンプレックスは健全なコンプレックスではない。家族を殺された犯人を裁判で絶対に有罪にするというのは健全なコンプレックスだが、家族を殺された悲しみを癒すために宗教に走るのは正しくないコンプレックスだ。自分は時々、本気で過去を変えようと思う事がある。そんなことできるはずないのに、延々とくだらないことを考え続けてしまう。

 

さて過去を変えよう、なかったことにしようとどうなるかというと、どことなく頭が痛くなる。人間には無理なことをしようとしているからだろうか、脳がどうやって命令すればいいのかわからずおかしな命令を出してしまうのだ。これは現実でも一緒で、無理なことを組織の上部が司令すると、組織に混乱をきたした挙句どこかにしわ寄せがいく。自分の場合このしわ寄せは、"余計なストレス"に尽きるだろう。適度な反省は重要だが、行きすぎると愚かなストレスとして自分に返ってくる。

 

こうしてみると自分はどうもドMなんじゃないかと思えてくる。自分で思い出したくない記憶を掘り返しては嫌な気分に陥っている。過去は過去で終わったと切り替えて、未来に行かなければならないのに。