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受験勉強で破滅した人間が失ったもの

 

まずは、私の受験人生をざっくりまとめてみたい。

 

私は外国籍とのハーフで、小学校の頃は周りから浮いてひどくいじめられていた。私が道を歩けば同級生は煙たがって道を開けたり、後ろから突然蹴られるなどかなりひどいものであった。その体験が中学生までおよそ九年間続き、私は幾度も自殺をしようと決意しては失敗したものである。

 

 

 しかしそんな私にも転機が訪れる。高校受験があると知った時は、ここでいい高校に行けば、自分を馬鹿にするような人間とは切り離され、自分を守れる空間で生きていくことができる。自分の尊厳を勝ち取るために私は中学三年になって必死に勉強した。そして見事、他人を特質で差別するのがタブーとされるくらいの文化圏に入ることができ、高校三年間はそれまでの人生で味わった屈辱を一切受けることはなかった。

 

そして次の大学受験に対するモチベーションも、自分が屈辱を受けないためであった。十五歳までに浴びた罵詈雑言は私の心に消えない傷跡を残しており、また勉強すればいいだけであったため、高校時代は一年生の時から受験勉強に明け暮れ、三年間気を抜かずに勉強して合格することができた。しかしそれが可能だったのは、受験勉強をしなければ自分の人生が破滅する環境に追い込まれていたからだと思う。このころの目標は一人の家で、穏やかに暮らすことだった。

 

大げさではなく、私は誹謗中傷をなんども浴びては自殺を考えたり、いじめの主を殺そうと刃物を学校に持って行った体験がある。胸糞悪くなる体験を思い出しては、私が自殺や犯罪に手を染めなかったのは奇跡だったと思う。私の人生はずっとあと一歩で破滅するかしないかというギリギリの線を歩いて来た。とにかくその線からずっと離れたくて、受験勉強を始めた十五歳の頃からは生きてきたと思う。

 

この「生存欲求」はとても強く、自分以外の高校の同級生が持ち合わせていないのは確かであった。私は高校で一番の成績を取っていて、周囲は真面目だとか天才だとかいうことが多かったのだが、実際はいじめられたくなかったから必死に勉強していたのである。高校時代の私の目つきは明らかに人とは違っていて、勉強しないのは飯を食わないのと同じ感覚があったように思える。他の生徒は勉強が大切とは言っても、勉強しなければ自分の存在が脅かされるなど考えてもいなかった。だから私はあの学校で一番になれたのだと思う。生存欲求の強さによって必死に勉強に打ち込めたことが、私の得たものであろう。

 

しかし逆に言えば、失ったものも多かった。生きるために生きていたので、生きる歓びのようなものを18までろくすっぽ味わうことなく生きてきた実感がある。友達も少なく、勉強にストイックに打ち込む人生では、とにかく生きることが全てだった。野生の動物のように呼吸して狩をして睡眠をするという、最低限に近い生活だった。生きることが全てだった。

 

だから、大学に入って、流石に自分の尊厳や生存が確保されるようになってくると、それまで人生を楽しんで生きてきた人間との格差が如実になったように思えた。何かを見つけて人生を捧げてきた人間と、生きるために生きてきた人間の差は大きかった。私はずっと生きるか死ぬかの世界で生きてきたので、尊厳を持って生きれることが喜びになっていたのだが、これから先の人生でそれを続けるわけにはいかない。尊厳を守れることに喜びを感じていては、ずっとその当確線上を走り続けることになる。

 

命や尊厳を目的に生きる人生で大切なものを失ったようにも思えるが、得たものも大きかった。私の幼少期の悲惨な原体験は、私の人生に大きく影響している。ここから脱するためには、新たに価値基準を作成する必要があるように思う。自分の幸せのラインをあげるのだ。それがどのようなラインかはまだ決めていないけど、幸せのハードルは必ず上げたい