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精神を不安にさせる「人生を無駄にしてるかもしれない感覚」との戦い

精神的に不安定な人は何かに追われていることが多いという。それは情熱だったり、恐怖心だったりする。自分の場合は「人生を無駄にしているかも知れない嫌悪感」に常に追われている。

 

とにかくダラダラと過ごすことができなくて、勉強や運動など何か生産的と思えることに時間を割いていないと後から思い返した時に気が狂ってしまいそうになる。

 

こういう感覚を持っている人は常に何かに取り憑かれたかのように手を動かしている人が多い。自分含め少々病的だと思うし、いろんな話を聞いていると心苦しいあまり自殺してしまったのだろうなと思えるケースも少なくない。

 

そこで今回は、こういった時間の有効活用に追われている心理とどう向き合っていくかについて考えてみたいと思う。

「人生を無駄にしているかもしれない意識」はどこから来るのか

 

人生を無駄にしているかもしれない意識はどこから来るのか。

おそらく根底には自分が死ぬ意識とか人生の有限感があるのだろう。兎にも角にも自分が無価値であると思うことに長い時間を割きたくない。ドストエフスキーの白痴に以下のような一節が出てくるが、1分1分は流石に無理でも、3時間も無駄な時間を過ごしては頭がおかしくなりそうなのが自分なのである。

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自分にとって時間=資産なので、無駄遣いしていたらイライラするのは当然である。そんな感覚がある。

 

自分が無駄な時間を過ごしていった結果、何も積み重ねずに老いていって、空っぽの人生を死ぬ前に後悔してしまう。「タタール人の砂漠」のように、平凡な月日を無駄に過ごしていった先に身体が使い物にならなくなり、せっかくチャンスが到来してもそれをみすみす逃してしまう。タタール人の砂漠は最後死に向かうところにまだ救いがあったが、自分の場合あそこまでいったら自分の空虚な人生からも目を背けて自殺してしまいそうで怖い。

 

この「人生を無駄にしたくない感覚」は抽象的で、何が無駄じゃないんだろうと思ってしまうことも少なくない。最近は大局的にみて何が有効策かわからないことも多く、ひたすら手を動かしているのもアホらしいので、時には冷静になることも必要なんだろうと考えている。しかし細かいところでミスは誰でもするが、大局的に見ていつか大きく差がつくのは目に見えているので、常に時間を有効活用することを考えているのは悪いことではないと思う。

 

そしてこの時間に追われている感覚は常に自分を苦しめる。満足のいくものなんて滅多になくて、時には安定剤を飲んで全てを忘れてしまいたくなる時もある。しかしこうしていないと身体が動かない自分がいるので、長短ある感覚なんだろうなと思う。

 

ニヒリズムに対して

ニヒリズムの意味、そしてニーチェと宮崎駿が語る克服法

どうせ死んでしまうのだから、何をしても無駄ではないか?と思ってしまう時がある。人生を無駄にしたくないと考えつつ、やることなすこと全て無駄と考えてしまうとやってられなくなる。

 

死の受容への五段階仮説で有名な「死ぬ瞬間」といった本を読んでみると、ガンの末期患者なんかもこういった思想に取り憑かれることは多いようで、どうせ死ぬ以上何も意味がないのだからとやけくそになったりする気持ちは大いにわかる。

 

このニヒリズムに対するアンチテーゼは何かないかなあと思って探しているのだが、未だに「考えない」以外の対処法が見つからない。個人的にニヒリズムというのは人生という舞台に上がろうともしないチキン野郎の戯言だと思っていて、舞台に上がろうが上がらなかろうが全員死ぬので、だったら舞台に上がって楽しく踊りましょうよという感覚でこっちは生きている。

 

舞台がいつか終わるのは分かっている。誰も見てくれないかもしれないのも分かっている。死んだら無になるのも分かっている。だけどその中で私はベストを尽くしてるんですよ。

 

私は踊り終わった時に自分を出し切っていればそれでいい。