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ビジネス、雑記等のブログ

ゲームをやって罪悪感が湧くのは、そのゲームが"楽しい"だけだから

ゲームを思いっきり楽しんだ後、よく罪悪感に襲われる。なんで?と聞かれてもよくわからなくて、楽しいんだからいいだろうと思う時もある。

 

でもやはり、2時間もゲームに熱中してしまうと、終わった後に俺は何をやってるんだろうという気分になってくる。1時間くらいだったらまあという気持ちにはなるのだけど、2時間くらいからきついのか。

 

色々と原因を考えていくと、どうもゲームというのは”楽しい”から虚しいんだろうなあと考えるに至った。

 

 

 

ゲームは楽しい。快楽性がある。現実ではうまくいかないこともゲームの中でなら簡単にできるし、その非日常性が現実でのストレスを和らげてくれることは否定しない。しかし大人になるにつれ、ゲームをやってただ楽しいだけで、総合的に見たときに投資とリターンがあってないと思うようになった。ゲームをやればいっときの快楽が手に入る。しかしその快楽は泡のように消えてしまうし、ゲームをやることで感動や深い悲しみが簡単に手に入るとも思わない(映画のようなゲームも世の中にはあるが、ここでは私が遊んでいるレーシングゲームとかの話をしている。)

 

ただ楽しい、それだけなのである。だからゲームで遊んだ後は1時の快楽を提供してくれるゲームに自分をうまく手懐けられたようで、自分の理性のなさに腹が立ってくる。

 

時間の有限性を考えたときに、何時間もゲームをやるというのはファーストチョイスにはならない。世の中にはもっと面白いものや、もっと実になるものがいっぱいあるからだ。ゲームなんて、大人ならちょっと楽しむくらいがいい。

 

ただゲームの中でも、ゼルダみたいに頭を使うのはまだいいかなと思ってて、何のひねりもなく金と時間をかければ勝手に強くなっていくような種類はやらない方がいいと思っている。この”真剣になれるかどうか”が将棋とゲームの違いというところだろう。

 

将棋・囲碁というのはゲームではあるが、そもそも自分の頭をフル回転させて戦うスポーツだ。対局となれば審判がついて途轍もない重圧を背負わなくてはならない。将棋に負けると帰って号泣するほど悔しいらしい。

 

それに比べてソシャゲのようなゲームというのは結局楽しさ優先な部分は否めず、負けても楽しい娯楽な部分がある。楽しさのためにすることが努力ではなく金を積んだりひたすら周回プレイをするゲームは、真剣にやる気が失せるなと思う